北ロータリークラブの継続支援

「ひまわりの種の会」北ロータリーで卓話
(堀川光子さん)

(04.10.04)

北ロータリークラブから今年も恒例の支援金を頂戴しました。
昨年の全国大会でお終いかしらと思っていた支援をズット継続して
頂けることは感謝に余りあります。
今年は支部発足以来共に歩んできた「ひまわりの種の会」の堀川光子さんから
「普通の人としてのALSボランティア」と題して患者訪問体験談など
日頃の活動を紹介して頂きました。
具体的な様子が目に浮かぶ分かりやすい講演と評判でした。

「ひまわりの種の会」は県支部発足以来一緒に歩んできました。
専門職でも遺族でもない普通の人達のボランティアで、
患者さんの訪問や総会・イベントなどの裏方など長年
地道な活動を続けているALS支援グループです。
2000年9月支部から独立し連携しながら活動しています。
新潟支部を特徴づける隠れたお宝です。
日頃の活動の一端と卓話を紹介します。
「ひまわりの種の会」の活動の一端です
総会やイベントには欠かせない腕章姿の裏方さんです 患者さんとお花見で〜す 印刷製本のお手伝いも 吸引の説明も受けて患者
さんへの理解を深めます
洗顔・歯磨きも上手ですよ 車椅子で一緒にお散歩。患者さんのお楽しみです。 時にはベッドサイドでコンサートを 水害の復興支援にもヨイショと力を出します

卓話:「普通の人としての
        ALSボランティア」

       
ひまわりの種の会世話役          堀川 光子

ひまわりの種の会堀川光子です。よろしくお願いいたします。
北ロータリーの皆様にはALS協会をいつも温かくご支援下さいまして、
本当に有難うございます。丁度一年前の全国交流会には皆様にボランティアいただき、とても有難く、どんなに心強く思いましたことか。感謝の念でいっぱいです。本当に有難うございました。

今日は先程の事務局長の紹介にありましたとおり、普通のおばさんのボランティア体験のお話をさせていただくことになりました。今までこのような機会がありませんでしたのでお聞き苦しいとは思いますが、どうぞお許し下さい。

先日、以前西新潟中央病院の看護師長をされていた方から、ひまわりの種の会の活動、貴重な体験を、皆さんもっと語ってくださいと言われました。私たちがお話すれば、当然患者さんのことにふれるわけですし、それこそプライバシーの侵害にもなるし、何より私たちは秘守義務があるからと、今迄お断りしてきました。でもこのごろ、私が関わってきた患者さんで長い闘病の果てにお亡くなりになり、思い出の中の人になっている方のことなら、もうお話できるのではないかと思うようになりました。それで今日はこうしてこの場に立たせていただきました。

今日のテーマはひまわりの種の会の活動のことですが、まず私のボランティア入門と、このボランティアで出会った方々のお話をさせていただき、それからひまわりの種の会の活動をご紹介しようと思います。

昭和63年秋に私の父は亡くなりました。病気は肺気腫で最後は病院でなくなりましたが、在宅中は母が家で世話をしておりました。私は週一度実家に行き父の清拭の手伝いをしました。肺気腫はお風呂に入ると胸が苦しいものですから、部屋で体を拭き、頭を洗い足を洗ったりしました、母は私のささやかな手伝いをとても喜んでくれました。

父が亡くなった後、週に一度母を手伝ったように、ボランティアをしてみようかと思ったわけです。とりあえず点字図書館の簡単なボランティアから始めました。

そんなある日ボランティアセンターから、新大病院の入院病棟へ週1回行って貰えないかとお電話がありました。その頃川岸町に住んでいましたので、新大には歩いて行けましたし、すぐお引き受けしました。

そこでお会いしたOさんがALS患者さんだったのです。
初めてお聞きした病名、筋萎縮性側索硬化症、ALS、恥ずかしながら覚えられず、何度もお聞きしたものです。人口呼吸器も初めて見ました。
Oさんの奥さんは母より少し年配の80に近い方でしたが、まず嬉しそうにご主人に話しかけ、私を紹介してくださいました。私から見たその患者さんは、お話もしないし、目だって殆ど開かない。体も少しも動かない、何にも分からずにただ静かに横たわっているだけのように見えました。それにもかかわらず、丁寧にご主人に話し掛け、毎朝、新聞を読んであげているそうでした。

私は体位交換のお手伝いやちょっとの留守番を頼まれたりしました。
とにかく初めてでしたので言いつけられたとおりにしたものです。
今から15年前に、明治生まれの方がボランティアセンターにボランティア派遣を頼まれ、・・・・私の母のように娘に頼るのではなく・・・・。
本当に時代の先端を行くO夫人との出会いでした。

その時病室にはOさん以外に3人のALS患者さんがいました。が それぞれ付き添いの方が、3分と椅子に座っていられないほどに、足の位置、手の位置、頭の位置の指示など、そしてと吸引と要求され、ALSとは本当に大変な病気なのだと知り、驚きました。
今から考えればOさんはロックトイン(体のどこも動かなくて丁度全身に鍵がかかっている状態をそういうそうです)に近い状況だったのではと思います。

奥さんはご主人の脳がちゃんと働いていると信じ、人権を尊重されて最後までご主人の尊厳を守りつくされました。
深刻な病気にもかかわらず、そして高齢でありながら、いつも明るくご主人に接し、私を指導してくださいました。

ご主人が亡くなられてからは、ALS協会の総会には必ずボランティアとして参加され・・・、枯れ木も花(山?)の賑わいよ・・・と笑っていました。私と違って細く油っ気の無い方でしたのでとてもおかしく忘れられない言葉です。最晩年なくなる直前まで朗読ボランティアを続けられたということです。

0さんをお訪ねしてまもなく、若林さんを紹介されました。この出会いがまた私の人生を変えたかと思うほどの出会いとなりました。無邪気な笑顔が印象的でした。普通の主婦の私から見たら、すでにボランティアの専門家に見えました。自分とは全く違う性格、行動、時々、理解できないこともありましたが、不思議な魅力を感じました。

まもなく若林さんの呼びかけでひまわりの種の会が発足しました。やはりなんらかで若林さんと繋がりがあって、信楽園などに患者さんを訪問していた人たち、6,7人に声をかけ2ヶ月に1回会合を持つことから始まりました。ひまわりの種の会はそれから続いて今に至っているわけです。そのことはまた後でお話させていただきます。

それから私より少し若い男性患者さんを訪問しました。
病気のために仕事をやめられ、まだ怒りの段階だったようです。ご自分の主義信条、思想がはっきりしており、私に求められたのは、機関紙を読むことでした。週1回、約2時間、途中持参のお茶を飲みながら、一生懸命読み続けました。

その頃、私は視覚障害者のための音訳ボランティアの講習をうけ、朗読の勉強を始めていましたので、本を読むことは少しも苦ではありませんでした。
彼は足の指先でキーボードを押し、ワープロで自分の意思、意見をはっきり伝えることが出来ました。
数ヶ月後、彼は論文を見せてくれました。私や彼の友人から読んでもらい、得た知識で文を作り纏めたものでした。とても難しい、長い文章でした。その集中力や記憶力には本当に驚かされました。

彼を訪問中、家庭の事情、お子さんのことや、お見舞いの人は?と余計なことが気になり、若林さんにお聞きしたことがありました。
難病の病人を抱えたご家族には、いろいろな事情があるし、私たちはありのままを受け入れる事が前提で、ご本人とだけ向き合って、自分が出来ることを、出来る範囲ですればいいのだと教えてくださいました。今もボランティアの、基本となる心構えのひとつになっております。

しばらく通ったのですが、転居のために通うのが大変になったこともありましたが、やめさせてもらいました。自分の心の中で彼を理解できない部分が大きくなり、彼から逃げてしまったのが正直な原因だったと思います。彼の厳しいまでの闘う生き方、何時までも心に残っております。

平成6年同居の娘に赤ちゃんが誕生!かねてから私が子守をするから、仕事を続けてねと言っていましたから日中孫と過ごす日々が始まりました。
娘の夫は住宅関係の仕事で水曜日が休みでした。姑の私と同居でありながら、彼は定休日には赤ちゃんの子守をしてくれ、私も水曜日が定休日になりました。幸いひまわりの種の会の例会は水曜日でしたし、水曜日に病院訪問を続けることが出来ました。

そこで新しく訪問をはじめたYさんは63歳発病、お会いしたときは69歳でした。発病の少し前まで会社勤めをし、有能なタイピストだったそうです。
 温かなご家族に守られて、闘病されていました。病気のことは極力秘密にし、ご家族以外は、誰とも会わずに過ごされてきましたが、ようやくボランティアを・・・とお話がありました。

私は30分の道のりを自転車で通いながら、孫守モードからYさん訪問モードに切り替え、今日はどんなお話をしようか、どんな風を運ぼうか考えながらぺタルを踏んでいきました。私が行くのを待っていたかのように、彼女は私にワープロのセットを頼み、額のスイッチでワープロを打ち始めるのでした。付き添いのお嫁さんや看護婦さんに頼むのではなく、ボランティアの私に頼みたかったようです。

お手伝いして最初の文は、主治医の先生にお願いのものでした。お嫁さに家に帰る時間を上げてくださいというお願いでした。それから次々とワープロで書かれた文章は、家族を少しでも楽にしてあげたい、自分は1人でも大丈夫だからという優しさに満ちたものばかりでした。私へのお声がけもいつも丁寧な言葉遣いと無理をしないで下さい、自転車気をつけてくださいと労わって下さる文章でした。

不思議なほど吸引も少なく殆ど体位の交換や要求もなく、我慢強いのか、ALSはお1人お1人状況が違うのか不思議に思いました。
私と16歳違いの方でしたが、しっかりした目をし理知的なお顔でした。
昨年お亡くなりになるまで、8年近い長いお付き合いになりました。
初めの頃は文字板でのお話が出来ましたので、お料理の話、孫の話など友人同士女同士の、普通の会話でした。

本も沢山読みました。宮尾登美子さんの「蔵」長編でしたがとても楽しみに待ってくださり、私も張り切って読みました。丁度テレビ化され、それも楽しみにされました。
拉致された横田めぐみさんのお母さんの書かれた本、乙武さんの五体満足、家族や私のために買われた本、ゴマミルク、などなど。序の舞は時間がかかりすぎましたがとうとう最後まで読みました。本を選ぶときはちゃんと指示がありました。宮尾登美子さんがお好きなようでした。 

読み手の私と聞き手のYさんとの間に流れる不思議な空間の共有。一体になったというのでしょうか。今もその感覚を忘れることが出来ません。本当に貴重な体験だったと思います。
白内障で目を悪くされてから、文字板でのお話はだんだん出来なくなり、意思表示は目を左右に動かしての確認だけとなり、だんだん意思の伝達が不自由になってきましたが、最後まで私にはきっと分かって居て下さる、私を待っていてくださるという確信がありました。

今、Yさんの発病した年齢に私がなり、改めてどんなに辛かっただろう、どんなに悔しかっただろうとこの病気の残酷さを思い知らされます。
本を読むときは、少し耳が遠くなられたこともあり、カセットデッキにテープをいれ、録音状態にし、イヤホーンを通して聞いていただいていましたが、先日、私がYさんに話しかけている録音テープが出てきました。私の声と声の間にYさんの人工呼吸器の音、規則正しい人工呼吸の音が入っているのでした。Yさんの生きていらっしゃる、闘っていらっしゃる音だと思いがけないテープに出合い感激しました。大事に取っておきた私の宝物です。

今までお話しましたように、ひまわりの種の会の皆さんも私と同じように、患者さんを訪問して来ました。悩みや問題をいつも例会で話し合い、考え合い、励ましあい今日まで続いてきました。いろいろありましたが、今はALS協会のボランティア部門として独立し総合福祉会館で例会を持っております。

事務局といつも連携し、支部総会、交流会のお手伝いをしております。昨年は皆様のご支援の下、皆で全国大会の成功の縁の下の力となったと自負しております。長い地道な活動を通して結ばれた仲間の団結力と申しましょうか。

このごろは在宅での闘病の方が多くなったのでしょうか。病院訪問は少なくなりました。現在は西新潟病院に入院中のお二人を皆で、ローテーションを組みボランティアしております。
昨年秋の入院以来ベッドから離れられなかったSさん、この7月から月2回車椅子で散歩できるようになりました。患者さんの喜びは即、私たちの喜びです。 

もう1人の青年の支援は、お母さんが脳梗塞で倒れ入院され、介護できなくなった6年前から続いています。アトピーが強く、病院の入浴だけでは改善しないため洗顔が欠かせません。入院直後はお母さんを心配させないようにと週三回交替で入っていました。お母さんが快復された今も、洗面や髭剃り、そして散歩など、週一回かれの応援が続いています。この17日にはアルビレックスの応援にビッグスワンへ行くことになっています 

私たちのメンバーですが、ただ今は13人、実働できる人は9人です。メンバー不足が否めません。皆一緒に年をとってきましたので、体力も無くなってきました。今年は是非会員を増やさなくてはと考え中です。
北ロータリーの皆様や奥様たちは如何でしょうか?ぜひともお考え下さいませ。

会員の中にお1人の男性がいらっしゃいます。奥様と一緒に遠くまで患者さん訪問してくださいました。新潟の男性で、大きな組織にお勤めだった方が、私たちのお仲間になってくださり、同じ立場でボランティアしてくださいます。その優しさにいつも感心させられます。今はちょっとお休みですが・・・・・。 

ただ今会員募集中です。どうぞよろしくお願いいたします。 

私は車も乗れませんので行動半径も狭く限られておりますが、これからも出来る範囲で続けていこうと思います。
このボランティアで得た 「健康は、病気とほんの紙一重であること。だから生に対して決して傲慢になってはいけない」ということを忘れないで生きていこうと思います。

今日は私の拙い話を長い間お聞きくださり、本当にありがとうございました。

これで終わらせていただきます。